2009年03月12日
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「現場付近に集合せる内径2,100粍鋼管」写真はどこか・調査の中間結果

Written By: 川俣 晶連絡先

 これは土木建築工事画報に見る玉川上水新水路・新々水路の経緯と写真の続きです。

 にある写真「現場付近に集合せる内径2,100粍鋼管」の場所はどこか、という探索の中間結果を以下に書きます。

「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」で質問する §

 玉川上水新水路・新々水路のかなりの割合は渋谷区内にあるので、質問しに行ってきました。

 結果として、この時代の甲州街道周辺の状況から考えて、渋谷区内とは考えられない。もっと西ではないか、ということになりました。

 とすれば、杉並区和泉ということになります。

似た写真を発見する §

 杉並区立郷土博物館発行の「レンズの記憶 -杉並、あの時、あの場所-」で、似たようなムードの写真を発見しました。

和泉2丁目17番付近 昭和22年

 「和泉2丁目17番付近 昭和22年」ということで、地理的、年代的に比較的近いものです。

「杉並区立郷土博物館」で質問する §

 結果としては「この写真だけでは分からない」ということでした。

 ただ、寺田さんより、調べるなら水道局の方が良いのではないか、という示唆は頂きました。郷土の風景という切り口から調べていましたが、正攻法で水道局経由のアプローチもありかもしれません。この件は、水道歴史館が再開されたら追求してみようかと思います。

余談 §

  • 白根記念渋谷区郷土博物館・文学館では、何と「春の小川」の図録に田原さんからサインをもらうというミーハーな行為に走ってしまいました
  • 杉並区立郷土博物館では、寺田さんより、荒玉水道なら資材置き場に使われた場所が分かっていると教えていただきました。うろ覚えで曖昧ですが下図のあたりです
  • 上記写真下の説明文が示唆に富んでいました。以下に引用します。

今、和泉小・中学校が建っている辺りの写真ですね。関魔土下(えんまどした)と呼ばれていた地域で、収穫量も多いし、いいお米ができるところだったんですよ。といっても、この辺りの農家は野菜作りが中心でしたから、稲作は、もっぱら自給用でしたけどね。林の中に小さく見えている屋根は龍光寺です。この当時はまだカヤぶき屋根ですね。林の前には神田川が流れているんですが、わたしが子どものころは飛び越すこともできるような狭い川でしてね、ウナギがよく捕れました。えさを付けた針を夜のうちに仕掛けておくと朝にはかかっているんです。関東大震災のとき、玉川上水が決壊して神田川に流れ込んだ後、急に魚の種類が増えたのを覚えています。そういえば、わたしが泳ぎを覚えたのも神田川なんですよ。

 ここでは以下の点がポイントとして気になりました。

  • 野菜中心、稲作は自給用
  • 神田川ではウナギが捕れた (過去に叔父から聞いた話と同じ)
  • 関東大震災で玉川上水新水路が決壊した水は神田川に流れ込んだ。このとき魚の種類が増えたということは、「玉川上水にも魚がいた」「神田川とは魚の種類が違っていた」

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